コロナ禍の1年

[2020.11.30]
准学校心理士資格認定委員会委員長
大野精一(星槎大学大学院 教授・研究科長)

この原稿をお読みいただくときには,12月師走になっていると思います。
コロナ禍に「振り回された」1年でした。
それでもここから将来に向けて「光」を取り出しておきたい。
ある住職さんが次のようなことをお書きになっていました。

闇などというものはない。
その証拠に光が当たれば消えてしまうではないか!

仏教でいう「光明」の意味が鮮明になりました。
コロナ禍という闇に何があればいいのでしょうか。
何が欠けているのでしょうか。
それ(ら)をどのように見つけ,入れ込めばいいのでしょうか。
コロナ禍という闇そのものの解析や応用(感染症学やそれに基づく予防策等)が不必要だと言っているわけではありません。
ただそれは闇それ自体を問題にし,その程度を軽減するだけで,闇自体がなくなるわけではないと考えるのです。
ZOOMやGoogle等の対応も同様です。
闇夜での工夫としては優れたものであっても,その先どうなっていくのか極めて不透明であると言わざるを得ない。

先日,Zoom本社が企画した研修会にZoom参加しました。
Zoomの新しい機能紹介も興味深かったのですが,それよりも私が注目したことがありました。
私の理解が正しければ,Zoomは教育現場が今まで行ってきた直接対面の授業(広くコミュニケーション)を「プレミアムな価値を持つ」と表現していたように思います。
考えてみれば,Zoomが可能にしたのは,私の理解では,同一空間・同一時間に人を参集させるだけで,ブレークアウト等の様々なツールがあっても,そこでの会議に必ずしも凝集性等の創造的な集団性を担保するものではないのです。
もちろん企業等の目的限定型の機能集団では異なる側面を持ちますが,人間・ヒトの全体性や統合性が関わる教育場面ではどうしようもない深い溝があるように思えて仕方ありません。
無い物ねだりをしても仕方ありません。
一体全体,直接対面の授業(広くコミュニケーション)にある「プレミアムな価値」とは何なのか。
コロナ禍という闇の中に細々として微弱であっても,その中で展開している「プレミアムな価値」はないかどうか。
あるとすれば,その光源をどのように強大にしていくか。
このあたりのことを若い准学校心理士の方々と一緒に考えていきたいと願っています。
万感の思いを込めて,みなさん,「よいお年をお迎えください」!