准学校心理士のみなさんへ事実あるいは根拠とは?

[2021.7.2]
准学校心理士資格認定委員会前委員長
大野精一(星槎大学大学院 教授・研究科長)

 今回は少しばかりややっこしいことを考えてみましょう。
ただこのことが日常の教育実践に深く関わることなので逃げるわけにはいきません。
「あなたのいうことはわかりますが,事実に基づく根拠は何ですか?」
先ずは本当にわかっていますか,と突っ込みを入れたくなるのを我慢して,「私の言ったこと(意見や判断)」に対する「事実に基づく根拠」 について考えてみます。

1)「事実に基づく根拠」について
 多分多くの場合にはそれぞれの「私の経験や体験」という「事実に基づく根拠」です。
この場合には一部まだ未整理のままであったとしても(多忙であっても日々の実践を省察reflectionし総括しておくことが大事になります),具体的な実践においてそれなりに確証されていることであり,仲間との議論でも受け容れられているもの(現実的な妥当性)でしょう。
 地位や権力を振りかざした物言いは論外(ハラスメント)だとしても,真摯な議論においても「客観性がない」との批判が当然出てきます。学会での論争ではなく職場での実践的な議論ですので,恐らくこの意味は,しっかりした根拠がないので,失敗し何らかの損失を被るかも知れないという不安や恐れに根ざしたものと思われます。
 この場合には当該職場における過去の事例や他の職場での同一事例に近い実践(直接にあるいは文献を通して知りうる),有識者等(スーパーバイザー)の招聘等が考えられますが,多様で複雑な実践現場ではなかなか難しいところがあります。となると職場での率直かつ当事者意識(責任性)を持った専門職同士の議論(熟議)で当面凌いでいくことが現実的・実際的となります。
 仮にうまく打開できたとしてもそれはある種の偶然であり,それでもまだ「客観性がない」との「批判」を根本的に解決したものではありません。この批判に正面から立ち向かうためには,具体的な実践や現実から離れた「客観性などはそもそもない」(少なくとも意味や価値はない)のであり,実践によって現実を切りひらいていく「実践の認識論」を構築すべきでしょう。「客観性がない」という物言いの基礎にある科学的あるいは実証的な認識論に対して根本的な批判し,「実践の認識論」を展開したのがドナルド・A. ショーンDonald A. Schonです。彼の主張についてはまた機会があればご紹介します。

2)「私の言ったこと(意見や判断)」について
 事実として「私の言ったこと(意見や判断)」が音声データとして記録することは可能ですが,ここでの議論はそうした次元ではありません。「私の言ったこと(意見や判断)」が己の良心(広く良識や理性)に反しないものかどうかが問題です。
 当該職場で働く専門職としての立場からの物言いであって,ウソもないし利益相反(子どものためと言いつつ実際は自分自身の利益を守るため)も抱えていない。残念なことに,ウソが日常化し,あまつさえウソに合わせて公文書までも書き換える事案までも出てくると,そもそも「私の言ったこと(意見や判断)」は無意味を突き抜けて虚無としか言い様がありません。
「私の言ったこと(意見や判断)」は専門職者としての倫理に欺かないものというのが最低限の条件となります。

科学的あるいは客観的,そして専門職を支える倫理とは何かいつも意識して実践活動に従事することが大事であることを再確認していただければ幸いです。