距離=速度×時間という物理法則について

[2020.8.3]
准学校心理士資格認定委員会委員長
大野精一(星槎大学大学院 教授・研究科長)

遙か昔に教わった単純な物理法則から「老い」の意味合いが自分なりにわかり,納得がいったことがある。
若いみなさんには直接関わってこないかも知れないが,何時かくる自分あるいは周囲にいる年配者を思いやる視点にしていただければ幸である。

距離=速度×時間という物理法則は極めて単純である。100メートルを9秒台で走る陸上選手はこのままを維持して走れるとしたら,時速でだいたい40㌔/時間といった程度となるので,実際上は無理だとしても,計算上は一日8時間かけれ,40×8=320㌔走行できる可能性があるということである。
走行距離を運輸業でみれば,仕事量となるので,これは単位当たり仕事量に時間を掛け合わせればいい。
さらに単位当たり仕事量を単位時間当たりの効率性基準量とすれば,仕事量=効率性基準量×時間となる。

ここで時間だけは客観的普遍的なものとしているが,絶対なものではなく伸び縮みすることがわかっている(アインシュタイン・相対性原理)。
ただ日常的には微細レベルであるので,通常は意識されない。
ところが感覚的ではあるが,どうも歳を取るに従って時間の進み方が早く感じられるのである。
さらにこのコロナ禍では忙しい日常を離れて時間はゆっくりと過ぎていくはずなのに,そうはいかない。
年齢を問わずに時間の過ぎゆく感覚的なスピードは増してるのではないか。
もしそうであるとすれば,どうしてなのだろうか。

これを仕事量=加齢あるいはコロナ禍の仕事基準量×時間から考えてみると,私には腑に落ちるのである。加齢あるいはコロナ禍の仕事様態でも,少なくとも今まで同様の仕事量(仕事そのもものの本質は変わらないとの仮定で,定量的に考える)をこなさなければならないとして,現実には効率性基準量が落ちればそれだけ時間を多く使わなければならない。
同じ仕事量遂行に対する時間が増える。
その仕事が実際に終わらなければ,「日暮れて道なお遠し」であるし,「あれ自分はどうしたの?」であろう。

具体的には,今まで一日10時間で500頁の読書が可能な方は,
500頁=1時間当たり50頁×読書に費やしその間に流れていく時間10時間
ところが1時間当たりの読書頁数が半分の25頁に落ちたとすれば,朝から読み始めたのに夕方になってもまだ半分,一心不乱に読む身にとってはもう夕方にななってしまったと感じる。
これが続けば,本当は自分の能力低下が主因なのだが,当該本人の否認機制が働けば,人生はあまりにも速いスピードで過ぎ去るように感じる。

さてここからどうするか,どう考えるか
論理の飛躍を覚悟で言えば,こうも考えられる。
加齢あるいはコロナ禍の仕事をしながら,自分の大切な価値ある仕事とは何か,それは効率性と物理的な時間で測る量的なものではないのではないか。
一人一人が生きることに関わって仕事の意味に向き合う以外にはない

若いみなさんはどう感じますか。